日本体育学会・アダプティッド体育分科会についてお伝えします。 分科会の名称に付される「アダプテッド(適応)」とは、スポーツ競技の競技者(プレーヤー)は健常者であるという前提を、障がいを持つ人に適応させ、競技参加への門を拡げる、という意味が込められています。スポーツに無意味で非合理な差別ががあるのあら取り払い、問題を克服していこうという決意の表れともいえます。 パラリンピックや、競技チームのフルメンバーを健常者、障がい者の別なく構成し、競技に参加する国も現れています。この記事では、海外と日本におけるアダプテッド・スポーツの歴史を振り返りましょう。 第二次世界大戦後の5年後、1950年には日本体育学会が設立されます。また、世界においてはそれに先駆ける2年前に、戦争で負傷した兵士やまきぞえになった一般市民たちのリハビリテーションをサポートする手段としてスポーツを活用しようとする動きが始まりました。1948年には車椅子の選手たちのためにストーク・マンデビル大会(パラリンピックの前身)が開催されます。 パラリンピックに続き、知的障害者スポーツの分野にも萌芽の生長が始まります。1960代、スペシャルオリンピックス運動が起こります。知的障害者スポーツが整備され、急速に確立していきました。1962年に始まるこの胎動は、その後わずか6年後には最初の大輪の花を咲かせます。1968年、アメリカ合衆国・シカゴにおいては第1回・国際スペシャルオリンピックスが開催されました。 第二次世界大戦後の日本においても、アダプテッド・スポーツに大きな転機となる出来事が起こりました。1964年の東京パラリンピック開催です。その後、年々アダプテッド・スポーツはその生長の響きを力強く奏で、そして1998年、長野冬季オリンピックの開催を迎えます。スポーツ分野に起こったこれらの発展に沿うように、教育分野においては1979年の養護学校の義務教育化がきまりました。 日本国内外におけるこれら障がい者スポーツの発展の波は、今日、障害者という呼称を改める動きを生む大地となりました。障がい者という呼称にも変容が起こりました。国際的にも日本においても、障害者という表現を改めて、「アダプテッド・スポーツ(Adapted sport)」と、新たに使用するように変わっていきます。 第二次世界大戦後に始まった障がい者スポーツの発展の樹は、このように年々生長し、実が実らせ、種を降らせ、そしてその新たな萌芽から、芽がふき、葉を茂らせ、大樹となり、蕾は大輪の花を咲かせ・・・アダプティック・スポーツは大きく生長していったのでした。 日本体育学会も、この日本におけるアダプティック・スポーツという大樹を支えながら対象の研究分野を拡大します。その学問研究活動は次第に多岐に分かれていきます。それぞれの枝は専門分科会として活動を専門的に深めつ高めつしながら今日に至ります。 現在、日本社会においてはスポーツに関する取り組みが盛んにされるようになりました。平成16年、大きな課題となったスポーツ分野の研究のため、より広い研究・交流の場である専門分科会「アダプテッド・スポーツ科学」の設置申請が日本体育学会になされ、平成17年12月1日に「アダプテッド・スポーツ科学専門分科会新設」が正式承認され、平成17年12月23日に「アダプテッド・スポーツ科学専門分科会」が正式発足、平成18年11月に会長選出(中田英雄 筑波大学)就任などして、内外ともに組織として整備され、今日、活発な研究活動を行っています。